60代を幸せに生きるためのコツ

がむしゃらに生きて来た人生から一変〜つぶやき日記

今日もいい日✨

急遽マリンの仕事の手伝いを頼まれた🏝️

シュノーケル🤿 私はアシスト👌

お客さんは当然内地の人達ばかり。


思えばいつのまにか私のウエットスーツやシュノーケルセットが購入してある。

海、、ダイビングやシュノーケル、サップ、カヤック、ん、、、どれも興味はそんなに無い😅

そもそも船酔いする方なので。

耳も良い方ではないから海に潜るなんてことは好んでやらない。いや、やらなくていい、ええ、やりたくない(笑)


なのに、ダイビングもダイビングライセンスもサップもシュノーケルもやるはめになる、とほほ


そして「できるよね!」の如く扱われ放置される、(なんでやねん)

ま、口癖で大丈夫!大丈夫!ってニコニコして言ってしまうところがあるから、か?ん?


初めてスキーをした時も上級者が滑る山の上の方で放置された。泣く泣くお尻で恐る恐る力込めて両腕両足使って降りた記憶がある。

髪の毛もまつ毛も凍ってた。

車の免許を取った直後初めて走ったところ、、、黙って誘導され入ってしまった首都高速道路!!!ひぇーーーー!

ぐるぐると都内を回らせられた💦


これも、シナリオ通りなのか。

自分自身、ほんとに、なんていうか、、、

デンジャラス知らずのことに敢えて挑むのが好きなのか。


そう、そして、マリンのお手伝いも、

本当はどっちかって言ったら手取り足取りニコニコして補助して欲しい立場なのにさ、、、

珊瑚に足がつきそうで海中でアタフタしたり、フィンに石が入って痛いから海中で外したり履いたりと、慣れてないからアタフタ😅

脚がつりそうだけどお客さんの世話したり、


そんなことを全然知る由がない旦那は、

やはり、私を放置しても大丈夫だと認識してる。


ま、いいか。


でも、いくら付き添いだとしても、この沖縄の綺麗な海で何回もシュノーケルが出来るって最高❣️

プカプカしてるだけ、ニコニコしてるだけ、誘導補助してるだけ、知ってることを話すだけ、コミニュケーションとるだけ、

そんなんで仕事になっている。


ありがたいですね。感謝ですね。


海を見たり、雲を見たり、プカプカ🐟達見たりしてると、

自然と心がゆるゆるになってくる。

何にも気張らなくていい。

そうカラダもココロも感じることが出来る。


心ゆるゆるにしてくれる楽しい訓練、

もしくは神様からのご褒美✨


こうして頼まれごとを淡々として生きて行く。

最高じゃないか✨



オンセラ🔥との出会い、つづき

私はフィットネスインストラクターの道を選ぶことになった。

やりたい仕事ではなかった。そもそも知らない世界。音楽も体操もダンスもさほど上手でもなきゃ好きでもなかった。のに、何故。


散々テニス🎾をやって来た私の肘関節が壊れかけていて、踵も激痛。

そんな中、テニスをお休みし、筋トレしにスポーツクラブに通った。

そこでスカウトしてくれた人がいた。

「フィットネスインストラクターの仕事、手伝ってくれない?」

えっ?

私は踊れませんが、人にエアロや筋トレなどの指導なんて出来ませんよぉー😅

「大丈夫!絶対できる!インストラクター養成もやってるから通いながら仕事も手伝って欲しい」


できるのか????


私の事だ、すぐに、いいよー🆗してしまった(笑)


やっぱり、頼まれごとは断らないタイプだった。


やったこともないレクチャーやムーブメントも一夜漬けで、はったりという裏技特技でどんどんこなしていき、オーディションにも合格し、あれよあれよと派遣からフリーで仕事を取れるようになって行った。ついてる。


肘は完全に治った。

踵は、都内にある整体の先生に治してもらい、手術しないで済んだ。


若い頃から足ツボやマッサージや整体が大好きで通っていた私が「すごい!」と思った先生、それは、その踵の激痛を患部を触らず口の中に指を入れ骨を調整したり頭の骨を涙が出るほど調整する施術だった。ビックリ。

一度で痛みはゼロになり踵をつけて歩くことが出来た。

施術の方法や見えないところへのアプローチなどなどにすごく興味を持つようになった。


定期的に通った。


マッサージもオイル系のものから整体っぽいのから、気功系とか、不思議な施術から。


そしてインストラクターの仕事をこなして行く中、自分がダンスのパフォーマーやリーダー、ステージやお祭りでの演出などなどの裏方の仕事も兼ねてバリバリ楽しく体も心も頭も動かしている最中に、リンパマッサージビクスという、セルフマッサージしながらリズミカルに体も動かす、というエクササイズのメディアの仕事も受けることになった。


楽し過ぎー、


無我夢中で「今」を「頼まれごと」を淡々とやっていると、やはり、ある方向に導かれる、というのは本当だと思う。


それから、何年も何年も過ぎた頃、オンセラという終着駅にたどり着いた。

知り合いに紹介してもらいオンセラを体感。


これ。すべてはここに辿り着くためにカラダを使って来たんだ。すべてすべて自分で体感するためだった。

オンセラの力はすごかった。

オンセラとの出会い🔥

結婚も出産も早くにした私は私の両親と同居していたため何かと衝突してしまう母に家事育児をほとんど任せて、なんと、なんと、テニス三昧🎾

はまってしまったのだ!


ちっさな頃から嫌なことや辛いことから逃避してしまう心があったんだと今にして思う。


めちゃくちゃ怖い父親へのバリアはかなり厚かった。母親への暴力が半端なく、、、私への愛情はまるで母に対する態度とは別人のように繊細な父だった、が、いつも布団かぶって泣いていた。

姉妹がいればまた違ったのだろうが、9歳離れてる母の連れ子の姉は私が8歳くらいの時に家出をしてしまい、ほとんど一人っ子のように育っていた。

なので恐怖心と悲しさを我慢するために心をどこかに飛ばす癖がついたんだろうなぁ。と、思う。


救いだったのは、父は殆ど出張していて家に居ることが少なかったこと!

出張中、母はかなり自由に羽を伸ばして楽しそうだった、かな?笑

どちらにも関心が無かった私もそれなりに楽しかった、かな?汗

友達は沢山居た記憶がある。特に男子。

中学生の時は11人と交換日記をしていた(笑)

ませていたのか彼氏も居た。


父が帰ってくると、留守中の私への勉強をちゃんとさせたかとか、色々と母に煩いことを怒鳴りながら話してたのを覚えてる。

私が風邪を引こうものなら手が飛んでた、母へ。

母は暴力で肋骨折ったり内臓痛めたり、ホント酷かった。

だから、私は熱があっても平気なフリ、咳も我慢、どうしても我慢できない時は布団の中でしていた。


そのため母と私は父に対してはかなり神経使い、嘘もつき、怒らせないようにしていた。


疲れた!


どこに憤りを向けていたか、後々それは母へ向けてしまった。

なんで抵抗もせず黙ったままでやられっぱなしなんだ???

私にはいまだにハテナだ。


何度か母は私を連れて家出もしてくれた。

拍手し、かなり喜んだ記憶がある。

が、ことごとく裏切られた。

すぐに戻ってしまうのだった。何故?


何かあるのか?大人の事情???不思議だ。


それならと思い、私は一人で家出を繰り返すことになる。

当然見つけられて戻されるの繰り返しだった。


思春期までそんな環境だったからか、現実逃避癖は根強く大人になってもそれは変わることはなかった。


常に心もからだも外へ外へ向けていった。


そもそも結婚をしたのも家を早く出たかったから。

だけど優しい優しい年上の旦那は私の親と一緒に住むことを望み、一軒家も父の助けもあり購入することに、何か私の意思意向とは真逆に展開して行った。


あまり考えない私、考えてたら変わった?いや、変わらないはず。だって、これ、シナリオなんだよね。もしかしたら、そのことに気づいていたかもって。

考えないタチだから、落ち込むことはなかった、なんだかんだ友達もいたから楽しかったし。

それで良かったのかもしれない。


父の母への暴力は歳を重ねるごとに無くなり暴言も少なくなった。同居のおかげか。

が、しかし、矛先が、なんと旦那になった!

性格が合わない!!!

知らんよ〜〜そんなん。知らん!

母まで旦那の悪口を言うようになった。

ある日父親が土下座して私に離婚するよう迫った!

あり得ん😥なんちゅーー親っ!

何が起きたんだ?


そう、私はテニスに明け暮れてたから家の中のゴタゴタなど全く知らなかった。

知らなかったでは済まないんだろうけど、


お願い!知らないフリさせてーーーーーって感じだった。


その頃、はい。バブル崩壊。ちゃんちゃんてな感じでうちの家族のように崩れ、借金まみれの我が家になりそれを後押しするかのように旦那の体調も悪くなっていった。

時には父親が寝てる旦那の首を絞める!という凄いこともあり、(無事だったが)いつ警察沙汰になってもおかしくないくらい荒れてた。


逃げたいよぉー。涙


もともとが根強く逃避癖を持ってる私は幸い悲観的にはならず、その場をどこに身も心も持って行けばいいかを感でわかっていたので辛くはなかったのを覚えてる。

その世界は楽しかったから。


テニスのコーチ?それともフィットネスインストラクター?  選択することになる。